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ゆうべふと、左側の視野の隅っこに妙なものをみた。 『なんか、・・いっぽんだけ髪の毛がとびだしてるみたい。』 そっとつまんでよくみてみると、それはまさしく「枝毛」であった。しかも二股に分かれているというのではなく、それはさながら、牡鹿の角をおもわせるほど多岐に分かれた一本である。じっとみつめているうちに、意外なおもいにとらわれていた。 『ああ。多重人格になっちゃってるよ。』 やがてそこから、さまざまな思念が浮かび上がって飛び散った。いきなりおもいだしたのは、いぜんの職場で同僚だったひとのこと。 「なんかね、わたしの肝臓のなかに、血管でできたマリモみたいなものがあるんだって。だからそのうち手術して、取り除いていただくことになってるの。」 なにもしらない身でありながら、何処かで本能的におもった。 『そうだね。そういうのって、若いうちに取ってもらっておいたほうがいいとおもうよ・・。』 枝毛というのは、度重なるダメージや慢性的な栄養不足によってそこに発生するものだ。(わからないけど、そんなことって、髪の毛だけじゃなくって血管なんかでも起こってしまったりするのだろうか。)そんな逆境をながく強いられ、本来のかたちでは存続困難な状況に陥ってしまったその一本の髪は、くるしみながら分化に向かう。なぜだろう。そうした仕組みを命自体が密かに持っているようなきがしてしまう。 異常な状況下にあるときは、異常になるのが正常な反応なのだと何処かで聞いた。 そうだろうな、とうなずける。 この場合、異常な変化を否定するための理由をしらない。ある状況のくるしさを真っ向からすべて受け止めるよりは、それを自ら望んでいたことにすりかえるとか、負える部分を作り出し、独立させてこれに負荷するなどの欺瞞に入り込むほうが、言うまでもなくかんじる苦痛は軽減(あるいは『分担』)される。多くの場合、これはシステムを過剰な負荷からまもり、その崩壊を回避するための苦肉の策だ。その選択があるひとのなかですでになされていたとしても、そのありようをいったい誰に責められようか。 また逆に、異常な変化のうちのひとつが、たとえひとなみ外れたつよさとなって外にあらわれたとしても、この輝かしい例外をスタンダードと定めるための理由もしらない。 「男はイエスか釈迦であるべきだ。女はマリアか観音であるべきだ。そうでなければできそこないだ。」 ともしも誰かが言うのなら、こうした尋常ならざる力を求める側の、それは勝手な依存にすぎない。依存する側が、その負債については相手の忍耐力により支払われるべきものと一方的におもいこんでいるか、あるいは無理に期待しているすがただからだ。(言いたかないが、マザコン老害に多く見られる。) 自らを分化させざるを得ないほどの法外な無理を、他に強いる権利など誰にもないのだ。 あらためて、枝毛にみいる。 喘ぐようにして本来を捨て、苦し紛れに分化する性。『無理』が異常を強いるとき、ふだんは隠れるそうした性は発動されて、表面化する。 『生きようとして?それとも訴えようとして・・?』 ちいさな幾つかに分かれることで、かろうじての存続を図るのだろうか。それとも、一本の髪(時には細胞)の怒りが限界に達し、生き延びようとすること自体を取りちがえ、他のありようへと変わってしまっているのだろうか。 『わからないけど、』 とおもったときには右手がハサミを取っていた。 なんであろうと、いったん枝毛になってしまった髪の毛ならば切るしかないのだ。その髪としてもとにはもどれず、さらには他にも傷みを拡大させかねない。 『もしも訴えだとしたら、「終わらせてくれ」って言ってるのかな。異常なかたち自体がすでにそうした表現なのかな。』 もういちど、枝毛をみつめた。 『ああだけどもしも、こんな髪の毛じゃなくて「こころ」なら・・。』 それは何処かで、きっともどろうとするだろう。 『こころであるなら、統合の道がありますように。』 これを念じるようにして、パチリとハサミで切り落とす。 そうだった。 部分と全体とはちがう。安易な敷衍はそもそも慎むべきだった。 『ちいさくしんだ「部分」なら、きれいさっぱり切り落とすのがいちばんだよね。』 なんだかすこし、安堵する。 あなたの意思を、 愛しています。 イイハナシダナーって言うか、 ところどころ太字にしたくなるって言うか、 こう、どうしても茶々を入れたくなっちゃうわふじょしw http://www.barks.jp/news/?id=1000045078 |
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